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「待つ」ことが人を育てる

チナツ(小4)、リサ(小4)らの発案でTOECフリースクール小学部(自由な学校)のみんなでパン食い競争をすることになる。ここからの展開がおもしろい。子供たちは「パン食い競争をやろう!」といった次に、パンづくりに取りかかったのだ。

強力粉をふるいにかけるところからはじめ、生地をこね、発酵を待ってダッチオーブンに。焼き上がるのを心待ちにしてついにフカフカのパンのできあがり。

「やったー!」「うれしい」。みんなでおいしい時間を共有。「あれ?」「そうそうパン食い競争をするためのパンやったね。」となってまたパンづくり。自由な学校のパン食い競争は1日がかりなのだ。

そういえば以前、卒業生のハヅキ(当時小6)が毛糸のあみものをやりたいと言って、まず竹を切って、割って、削って…なんと、あみ棒づくりを始めたことがあった。自由な学校の子供たちのライフスタイル、ことに時間枠の大きさにはただただ脱帽する。

それは一見無駄なようで、実は大切で豊かな時間。そしてこういった場に居合わすことで僕自身が見失いがちな自分のリズムを取り戻し、結果ばかりに向けられがちな目をプロセス(過程)にふり向かせることができるのだ。

人間が育つということまで効率的にしようとすることは人間そのものを疎外することになる。人間はモノではないし、学校は工場ではないはずだ。しかし、実際はそのひずみがもろに子供たちをおしつぶしてしまっている。

連日、いじめによる自殺のニュースが続く。自殺した当人の悲痛な叫びには胸をはりさける思いだ。なおかつ、僕はもう一方の、つまり加害者側に立つ生徒やその親、そして教師たちの悪行や暴き立てるような論調のマスコミや社会の風潮にも胸が痛む。先日は、そうした学校の校長先生が自殺するというショッキングなことまで起きてしまった。

何としてもこの不幸な連鎖は絶たねばならない。解決策や原因追求に右往左往している今、一度立ち止まり、この状況が我々に伝えようとする切なるメッセージに耳を傾けよう。

誰もがただ存在するだけで尊いということ。そして自分の身体も生命も自分の持ち物ではなく、つながりの中で生かされているということを一人ひとりにとどけたい。どうか急がないで。「待つ」ことが祈りを育てるのだ。

春、枯れかけていたサツマイモの苗から、立派なイモが実った。