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フリーキャンプでみんなの瞳が輝くわけ

それは簡単なことなのだ。つまりは、全員一緒のこと(同じプログラム)をしなくてイイ。各々やりたいことはやりたい。やりなくないことはやりたくないと言える。ただそれだけ。それだけで、子どもたちの瞳は輝きはじめ、いっぺんにいきいきとしはじめる。

今、日本中に5000校、10000校あるともいわれる自然学校や全国の学校現場でおこなわれる自然体験活動は、ほぼ例外なく体験学習法(※)と呼ばれる考えで構成されている。昨今文部科学省を挙げて、全国展開を図っているアクティブラーニングに基づく授業法もその延長上にある。それらはもちろん、軍隊もどきのキャンプや生徒の気持ちや状況を無視した教師中心の一方的な授業とは違う。子どもたちの自主性や体験を重視する方向性も十分うかがい知ることができる。

※体験学習法とは
体験→気づいたことを分かちあう→話しあいやアドバイス→一般化したことを再び次の体験へと活かす…という循環の中で自ら学んでいくプロセスをいう。その構成は主催者や指導者のねらい・目的を効果的・効率的に達成するため、指導対象者や環境・流れを考慮しあらかじめプログラムデザインされている。

しかしだ。それらはとどのつまりが指導者の願いや目的を達成すべく、綿密にプログラムが構成されたものだ。指導者はそのプログラムを子どもたち全員が体験するようにあの手この手(動機づけしたり、ほめたり、しかったり、競わせたり)で指導する。そして、願いや目的のとおりに全部の子どもたちがたち振る舞うようになることを教育効果と呼び、その指導の的確さや巧さを指導力と呼ぶのだ。

したがって、決められたプログラムをやりたくないとかそれ以外をやりたいという子どもたちは様々なアプローチで変容を求められることになる。例外なく、指導対象となるし、否定されたり問題児とされることも少なくない。みんなと一緒じゃないのは反社会的で協調性がないということらしい。

余談ながら、様々な変容を求めるアプローチが功を奏さない時、安易に発達障害だとかLD(学習障害)だとかを持ちだして片付けてしまう傾向は明らかに強くなっている。紙面を別にまた触れたいが、これは個々を尊重し共感的に関わってゆくこととは違うということを明言しておく。

よく誤解されるのだが、やりたいことを全部やれるとかやりたくないことはやらなくていいと言っているのではない。当然やりたくても、様々な事情でやれないことはある。そのことで思い通りにならないことを学び、時にあきらめることを学ぶ。また、あきらめずに話しあいや創意工夫で、やりたいことへと近づける過程(プロセス)の中で、様々な手応えのある学びを子どもたちは経験する。これは、指導者主導の学びのプロセスにのっかることより格段に意味のあることだ。

また、やりたくないことでも当然やらなければならないことはある。しかしそれらは時間や安全や集団の秩序など、様々な制約や枠組みが強いるものなのだ。彼らが悪いのではなく、やらないことが都合が悪いだけ。やりたくない気持ちは裁かれることはなく、そのまま受け止められ行動や言葉の協力を求めるだけだ。

もう一度確認。やりたくない、別なことがやりたい、は指導者にとりプログラムにとり都合が悪かっただけであって、その子どもたちは悪くない。問題児ではない!ワガママは思い通りにしようとする企ての方ではないか!思い通りにしようとするねらいや目的、つくりこんだプログラムが生みだしたまさにゴースト(本来存在しないもの)なのだ。ウソのようだが、このからくりが解けるだけで子どもたちは解放され、いきいきする。

「さあ、そこでフリーキャンプだ。」

簡単なことだ。ゴーストを生みだすねらいや目的を手放し、あらかじめつくりこんだプログラムを捨てればいい。みなさんご一緒にもやめる。えー!それなら「教育」ではないのでは?と。あの手この手の指導があってこそ「教育」というが、はたしてそうだろうか。

そもそも子どもは指導される「対象」ではない。遊び、学ぶ「主体」そのものだ。主導権は彼らにある。自由な場で発露する主体性や意欲の価値ははかりしれないものだし、保障すべきものだ。過不足のない支援が届けられたらそれでいいのだ。自由の中、自らの意志でやりたいことをやる。子どもたちは自然や人とふれあい、出会う。「教育」はその時プロセスがその場に連れてくるものだし、一人ひとりに必要な分だけ運ばれてくるものだ。

つくりこまれたり、過剰な指導のプログラムにのっかる「教育」とは似て非なることだと指導者は了解する勇気が必要だ。しかもその指導こそが、依存性や受身を助長することということも自覚する必要がある。子どもたちは実は知っているのだ。楽しく、有意義そうな体験活動、大いに盛り上がった後にこう言うだろう。「終わり?もう自由?遊んでいい?」このタフさこそ、信頼に値するものだし、支持すべきものだ。

もうひとつ。フリーキャンプのスタッフはその子を思いどおりにするために苦悶するあの手この手の指導から解放されている。そして、その指導者の眼差しは指導すべき子を問題児として見る「ノット OK」のまなざしではなく「イッツ OK」のまなざしのはずだ。スタッフがいきいきするのも当然だ。その場も暖かく促進的になるだろう。場に力が宿るのだ。

某有名自然学校のスタッフが、トエックのスタッフが子どもたちと関わる姿を見て、「一緒に遊んでいる…!」「一緒に笑っている…!」「一緒に語りあっている…!」と驚愕していた。彼の現場では、緊張し、管理し、指導する。その悪戦苦闘がガンバッテイル証なのだ。

フリーキャンプはその子がその子でいいのだから、イイコもワルイコも存在しない。スタッフもまた然り。フリーキャンプをとおし、子どももスタッフも今の自分を認め、自由になってゆくところなのだ。

えー、ほんまに共感と信頼の中、自分を表現する時、人は成長・調和へと向かうのか? YES!
ホンマに?なんでぇ?

なぜならそう考えた方が、楽しいじゃないか!